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-1982年 富士スバルライン- その5
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| 1982年8月2日〜3日 |
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8月2日 「社長、すみません。いま埼玉にいるんですが、台風が来ててきのう帰れなかったんで、今からこっちを出発します。申し訳ないですけど、きょう一日休ませて下さい。」 「じゃあ、そろそろ出発するわ。いろいろ世話になったね。ありがとう。」 高島平から首都高速に乗り、今度こそ迷うことなく東名高速方面に走る。きのうここで道間違いさえしなければ、今ごろは普段通り会社で仕事をしているであろうに…。 順調に走っていると、東名高速厚木インターの少し手前あたりから車が渋滞しだした。なにか事故でもあったか、と思いながら、ノロノロ運転。しばらくすると、厚木インターで、赤い棒を振りながら下に降りなさいと指示しているおっちゃんが立っている。案内板に、「東名高速厚木インターより通行不能」と出ている。どうやら、きのうの台風の影響で、ここから先の道のどこかが壊れたか埋まっているようだ。 ここからが地獄の始まりである。 東名高速を西に向かっていた車は、全車一般道に降ろされたもんだから、国道246号線は、もともとこの道を走っていた車も巻き添えにして、満タン状態になっていた。動かない。10m進んで15分ストップ。車の列は、遥か彼方の見えなくなるところまで続いている。その先はわからない。迂回路はない。というか、よそ者の私は知らない。他の車も迂回している様子はない。たぶんこの道しかないのだろう。最初のうちは、 朝、7時過ぎに友人F宅で朝食を食べたっきり何にも口にしていないから、ハラだってへるのだ。でも、こんなときに限って、道の横には店がない。たまにある自動販売機でジュースを買ってごまかすぐらいだ。 それから何時間経過しただろう。太陽も沈み、夜になっても渋滞はまだまだ続いている。もう辺りはすっかり真っ暗になった頃、ふっと道の左を見ると、そば屋があった。しかし、こんな事態だからみんなここに殺到していて、とても食べられる状態ではなさそうだ。しかたない。またジュースでごまかすことにしよう。そう思って、車が動く気配がないのを確認して、スバルレックス号を車道の車の列に並んで置いたまま離れ、その店に飛び込んだ。今思えば、このとき列を離れて店の駐車場に車を止めればよかった。僕は、店に入ってビンのジュースを買ったあと、すぐまた店を飛びだし、ゴクッとひとくちジュースを飲んだ。前方の車道を見ると、僕の車の前に数十メートル開きができているではないか。ホンの数分の間に動き出していたのだ。
僕は慌ててスバルレックス号に走り寄った。その時…。 僕はいきなりブッ転んでしまったのである。暗かったので、車道と店の駐車場の間に縁石があったのが見えなかった。しかも焦っていたからよけい周りのことが見えない。右手に持っていたのは…ガラスビンである。どうなったか想像できるだろう。まだひとくちしか飲んでいないのに…。そう思いながら自分の車に寄ろうとしていると、近くにいた人が、 「すみません。お世話になりました。」 時計を見ると午後8時。僕は、車を路側帯に止め、そのままシートを倒して寝ることにした。しかし、寝ようとするとズンッ…ズンッ…と、傷口が痛む。そうでなくても車の中ではなかなか熟睡できない。結局ウトウト状態で夜を過ごすことになった。 8月3日 気がついたら時計は午前4時だった。まだ真っ暗である。しかし、道はすいていた。ようやく渋滞は終わったようだ。すいている間にちょっとでも前に進んでおこうと、また僕は走りだした。幸い、ここからは順調に進むことができ、途中から高速道路に戻ることもできた。日中は、なんの問題もなく、東名、名神高速を走りきった。
徳島の自宅に到着したのは、夜の8時頃だった。結局、埼玉から徳島まで36時間かかったことになる。渋滞していた区間は厚木〜御殿場。埼玉から御殿場まで120kmを12時間もかけたのだ。自宅にたどり着いてすぐ、埼玉の友人Fに電話をかけた。 そして、僕の右手の親指には、今でも傷跡が残っている。
…さて、これでおしまいにしてしまうのでは僕の気がおさまらない。今回の旅はいったい何だったのだ?…ということになる。富士山5合目に失敗して、記録的な大渋滞を経験し、ケガをした。ただそれだけの旅。 もちろん、富士山リベンジはしましたよ。翌年、1983年にね…。 |
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